溝渕 碩治(昭40・法)

 常磐線「馬橋」駅で下車、東口から徒歩5分のところにある「法王山 萬満寺」、幾多の苦難を経ながら、今も水戸街道きっての古刹としてその名を育んでいる。

法王山 萬満寺山門 クリックすると拡大します。

 参道入口にひときわ大きな山門が建っている。二階部分に欄干の回縁がついた一重屋根の楼門で、「灋(法)王山」の扁額がかかる。この大門をくぐると国指定重要文化財の阿吽仁王像(木造金剛力士像)が安置された仁王門になる。大きな像を目にして気持ちが高ぶってくる。霊験あらたかな仁王様として知られており、阿像は2.75m、吽像2.45mの大きさ、2体ともカヤ材の寄木造りで、胎内に「平朝臣□□再興□□ 文明六年甲午七月上旬」の墨書銘があるという。「再興」の文字はその作風から見て、文字通りそれ以前に存在したものを修理したということで、室町期の代表作として大正五年(1916)に国の重要文化財に指定された。この仁王像は3月27日~29日、10月27日~29日に行われる中気除け・息災祈願の「唐椀(とうわん)供養」、病除けの「仁王の股くぐり」でよく知られている。「仁王の股くぐり」は、阿像の狭い股間を身を伸ばして潜り抜けるもので、病気・厄除けとして江戸時代から行われてきた伝統行事とのこと。この仁王門をくぐると正面が本堂になる。ご本尊の阿弥陀如来像と木造不動明王像は松戸市の有形文化財に指定されている。

萬満寺の仁王像(右・阿像、左・吽像) 撮影・溝渕碩治 2023.1.2

 萬満寺は寺伝によると鎌倉歴代将軍と千葉家一門の菩提を弔う寺として、下総国の守護職「千葉頼胤(よりたね)」が、鎌倉極楽寺の開山となった良観房忍性上人を招き、建長八年(1256)に馬橋に建立した「真言律宗」の寺「大日寺」が源になっている。

 『松戸の歴史案内』は千葉頼胤の居城が大日寺の北方にあたる「二ツ木作台」辺りにあったと推定しているので、頼胤は身近な場所に寺を建てて供養をしていたと思われる。

 この頼胤は鎌倉幕府の有力御家人として幕府を支えた常胤から6代目の孫。父の早死に3歳で家督を継ぎ、後に千葉介惣領となって活躍をした。 文永十一年(1274)に元・高麗の連合軍が九州の博多湾沿岸を襲う(元寇の役)と、鎮西御家人の主力が博多湾沿岸に結集して交戦をした。頼胤はこの戦いで負傷、その疵がもとで翌年の建治元年(1275)8月に肥前国小城で亡くなった。37歳だった。その後、孫の貞胤(1290~1351)が「大日寺」を千葉に移し、貞胤の孫満胤(1362~1426)の時代、康暦元年(1379)に 「萬満寺」になった。この改名については『松戸のお寺』で現住職が詳しく経緯を書かれているので引用させていただく。「室町時代、足利氏満(鎌倉公方)は義満に対して謀反を企て、京都幕府と鎌倉は不穏な状態にあった。そこで氏満は臨済宗の高僧で天皇・幕府に信頼の篤い夢窓国師の高弟である古天周誓(こてんしゅうせい)和尚を使者として室町幕府との和睦を図った。氏満は功のあった古天和尚のために、堂宇を整備し、将軍「義満」と自身の名「氏満」双方の満をとり、「萬満寺」と改め臨済宗に改宗した。」

 萬満寺は古天周誓和尚を中興開山として歴史を刻み始めた。そして戦国時代の天文六年(1537)に、京都・紫野の大徳寺の謹甫宗貞(きんぽそうてい)和尚に帰依した小金城主・高城胤吉が、謹甫和尚を迎えるために伽藍を復興し、馬橋村7百石を寄進して臨済宗大徳寺派に変更した。この時代には太田道灌が持仏の阿弥陀如来を奉納して武運を祈願したと伝わっている。天正十八年(1573)の豊臣秀吉の関東攻めの際には制札が下付され、江戸時代になると徳川幕府から70石を受ける朱印寺として栄え、一万二千坪の広大な境内には堂塔伽藍が林立していたという。前述した「金剛力士像」は霊験あらたかということで人気が高く、文化十一年(1814)に本所回向院にて2カ月間にわたる江戸出開帳が行われた。明治に入ると全国的に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ萬満寺も被害を受けた。明治四十一年(1908)に常磐線の機関車の煤火でカヤ葺き屋根の本堂、書院、庫裏が炎上、仏像、その他の寺宝を失しなってしまうが、仁王門はかろうじて難を免れた。

 現在の堂々とした本堂は昭和六十二年(1987)の落慶である。コンクリート造りで火災に対する備えがしっかりできている。境内墓地には江戸時代の俳人「立砂」「斗囿」親子の墓がある。古い石造物も多く松戸の歴史がしのばれるお寺である。是非一度は参観をお勧めしたい。

 

One thought on “水戸街道きっての古刹・萬満寺 松戸の寺の歴史あれこれ③(投稿)”

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です