増田典彦です。こんにちは。いつもたいへんお世話になっております。
さて、私は良く言えば物持ちが良く、悪く言えば断捨離ができない、子供の頃からそうです。それでも、転勤や結婚、実家の建て替えなどでだいぶ無くなってしまった物も多いです。
今回は定年退職を機に、たぶん最後の物置整理をしていたところ、ダンボール2箱に上る國學院久我山高校、中央大学の資料が出て参りました。それぞれ受験から合格、入学、卒業に至るまでの資料がございます。
中でも、まず久我山高校時代の参考書とノートには我ながら感動。英語の教師を夢見ていた私は、本当に良く勉強していたな、と思い出しました。
中央大学。英語の教師は諦め、会社員になることに決めた瞬間です。久我山高校の卒業式終了後が中央の合格発表でしたので、高校の担任が校長から卒業証書を生徒に渡す時に校長の脇に立ち会い、一人ずつ進学先を校長に伝えるのですが、”こいつはまだ”と言われたのを今でも忘れません。卒業式が終わり、その足で御茶ノ水へ。一番難しい問題で、自信の無かった中央大学の合格掲示板に自分の受験番号が書いてあるのを確認。さっき”こいつはまだ”と言われたのを思い出す。
そんなこんなで中央大学に入学。
まず驚きは、学費の安さ。368,300円が初年度の年間学費。学員時報、生徒諸君へのお知らせ、期末試験に代わるレポート試験の問題、成績証明書、就活のスケジュールノートや内定と書かれたノートなど我が人生が大きく舵を切られた瞬間です。こういった過去の”遺物”が私をタイムマシンに乗せ、当時の自分の場所まで連れて行ってくれて、やり直しはできないが、自分が過去分かれ道に差し掛かった時に選択してきた道は間違っていなかったよ、と自分で自分に囁いてあげたいです。(s56年商・経営卒 増田典彦)
大先輩方が多くいらっしゃる中で、少々気が引けたのですが、昭和52年入学した私は駿河台キャンパス最後の進入生です。従って、配布され他各種印刷物も駿河台で最後の代物ですので、投稿することにしました。当時は移転反対派による破壊的な闘争が激しく、大学の周りを機動隊の放水車が取り囲み、物々しい雰囲気でした。結局12月に大学はロックアウトとなり期末試験は中止、レポート提出により代替えとなりました。昭和52年の入学生は、そんな激動の中央大学の節目の年を目の当たりににしたのてす。
以上(S56年商・経営卒 増田典彦)