12月7日土曜日 第10回史跡巡りに会員12名が参加し、東武鉄道大宮公園駅に集合しました。この日は抜けるような青空で風も無く絶好の散策日和でした。

 駅北部は大宮盆栽村として親しまれる日本でも有数の盆栽栽培業者が集まる地域で、特に大正12年の関東大震災を契機に、都内から盆栽業者が移り住んだり、被災を免れた盆栽が寄託されたりして、盆栽村が生まれたとの事です。

 大宮盆栽村創設に当たって、①盆栽を10鉢以上持つこと、②門戸を開放すること、③二階建て以上は建てないこと、等々の規約を設け誰でも落ち着いて盆栽を楽しむ環境を作り出しており、今回の史跡巡りでも盆栽の美しさを十分に堪能することが出来ました。

 盆栽と云う日本独自の園芸の成り立ちには、日本人の庭園感が深く関係していると思います。

 西洋の庭園では自然界に在り得ない三角や四角や真円等に区画し、水は上から下に流れるのが当たり前なのに、下から上に流したり(当初噴水が作られた目的は別の処に在ったが、庭園に組み込まれる事となった)自然を切り刻み、蹂躙し、征服するのが庭園の造り方であるが、日本では庭園は自然との調和、一体化を目指した。

 平安貴族が権力を握った時代は、浄土信仰と相まって、この世に極楽浄土の様な庭園を造ろうとした。浄土と云うのは誰も見たことは無いが、住みやすい気持ちの良い場所だろうと、仏教は暑いインドで発祥したため、暑い地域で心地良い場所と言えば水辺になるので、浄土式庭園では池や川など水が在ることが必須であった。

 時代は変わり武士が権力を持つようになると、禅宗の影響が強くなり、水を使わず水の流れを現わす枯山水の庭(龍安寺の石庭など)が作られるようになった。此処から更に坪庭など縮み志向の庭に進むことになる。

 江戸時代になり戦争に備える必要が無くなった大名達は、余った財力を三名園に代表されるような豪壮な庭の造営に注ぎ込むようになるが、一方では詫び寂びに基づく縮み志向の庭は武士階級に限らず広く庶民にまで浸透して行くようになる。この箱庭風の庭に盆栽が良くマッチしたものと思われる。

 盆栽は当初、深山幽谷の険しい崖面に自生していた物を採って来たことから始まった。

 栄養も無い岩の隙間に根をおろし、厳しい自然に耐えて育った木は、樹齢数百年を経ても腰の高さにも成長しない。半ば生き半ば死んでいる樹様が武士の死生観にマッチしたのか、それらの木々に美観を見出すようになった。

 しかし、山採りは命の危険が伴うため、その後人の手で木を縮める手法が開発されて行った。

 盆栽の寿命は数百年以上に及ぶ物も多く、先代より受け継がれ、次世代に引き継がれて行くことを前提とした、人から人に受け継がれて行く命のある芸術品と言えます。

 

 さて、今回の散策のもう一つのテーマとして、さいたま市立漫画会館の訪問がありました。

 地元出身の北澤楽天の自宅跡に作られた物であり、楽天の資料だけでなく漫画文化に関する展示があります(当日は生憎展示の入れ替えでメインの展示室は閉鎖でした)。

 ここで長年出版文化に貢献した小林一光副会長から解説がありました。

 小林副会長の解説に若干補足して記すと、昔欧米では日本と比較して識字率が非常に低かった。漫画とはこのような教育を受けていない字の読めない人のための劣った読み物―との偏見があった。

 何でも西洋の文化を有難がる日本人もこの風潮を受け入れ、漫画とは低俗な読み物とする風潮があった。私も子供の頃「漫画ばかり読んでいると馬鹿になる」と叱られたものでした(結果としては馬鹿ですが、これは漫画のせいではありません!)。

この風潮の中で漫画界の文芸春秋を作る!と立ち上がったのが集英社でした。有名作家を使わず、新人作家を発掘し、編集者と一体となって、読者の意見も取り入れ日本一の漫画雑誌となり、世界でも注目される日本アニメの一翼を担うようになりました。

 さて、散策の最後として埼玉盆栽美術館(生憎当日閉館)の向かいに在る”盆栽レストラン大宮“で会食となり美味しいお酒と料理を堪能し、楽しく談笑してお開きとなりました。

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に、筆者としては西欧と日本の文化の違いを記したかったのですが、筆者の筆力不足により、西欧文化を卑下するような印象を与えたら陳謝しますが、芙蓉園で合ったオーストラリア人のガス・マッケンジーさんの様に盆栽の修行に来られる外国の方もいることを知って、日本文化に親しもうとする姿勢に大変うれしいものを感じました。*本文の執筆に当たり、神野正史氏のネット記事、および井沢元彦氏の「逆説の日本史」から引用しております。

文責 森田 勝巳 昭和52年 理工