溝渕 碩治 (昭40・法)

本福寺
禮拝山恭敬院本福寺

 常磐線「北松戸駅」で下車、国道6号線を超えて明治神社を右手に見ながら歩くこと約15分、禮拝山恭敬院らいはいざんくぎょういん本福寺がある。松戸市内で唯一、東葛地域でも三ヶ寺しかない時宗の寺である。

 時宗は一遍(1239~1289)によって開かれた。一遍は一所不在の遊行生活で諸国を流浪し、踊り念仏や「南無阿弥陀仏・決定けつじょう往生六十万人」と刷られた念仏札を配る「賦算ふさん」をしながら布教活動をした。16年間で目録に載せた賦算の人数は215万1724人に及んでいるという。その行動から遊行上人、捨て聖といわれた。

 本福寺はその一遍の二祖といわれる他阿真教たあしんきょう上人によって、鎌倉時代後期の嘉元元年(1303)に開山した。ご本尊は室町時代に鋳造されたといわれている善光寺式阿弥陀三尊像で松戸市の指定文化財になっている。また同じく指定文化財の「嘉元改元癸卯みずのとう天九月本福寺開祖他阿弥陀佛」と刻まれた、踊り念仏に使われる鉦鼓も現存している。本福寺は正に古刹中の古刹なのです。

「吉田松陰脱藩の道」の石碑

 この本福寺の山門右手前に二基の目新しい石碑が並んで建っている。右側の石碑は自然石に銘板が埋め込まれている。その銘板の右上に吉田松陰の似顔絵があって、「吉田松陰脱藩の道」とあり、その横に「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」と『留魂録』の冒頭に書きとめられた辞世の歌が彫られ、「嘉永四年(1851)辛亥十二月十四日客遇の地松陰二十二歳」と彫られている。

 

「佐藤久太郎殺害」の石碑

 左側の小さな石碑は角柱型で正面右側に「元治元年七月廿七日」真中に「真然證空信士」その左に「水戸藩佐藤[ママ]太郎こと当村ニテザン首セラル」とある。左側面に文字大きく「水戸藩諸生派佐藤久太郎」、行を変えて文字やや小さく二行で「佐幕派家老市川三左衛門にくみしたとの事由により、下総本郷で殺害される」と彫られている。

 二つの石碑の銘文を読んでいると、どことなく幕末の喧騒が聞こえてくるような気がしてならない。

 吉田松陰は熊本で出会って意気投合した山鹿流兵学者宮部鼎蔵ていぞうと、江戸で知り合った南部藩士江幡五郎と3人で東北旅行をすることになった。当時東北は「ロシアの脅威にそなえる北辺の守り」で重要視されており状況視察が目的であった。ところが藩主慶親が萩に帰っており江戸藩邸では手形に印形がもらえず、やむなく嘉永4年(1851)12月14日藩邸を出て脱藩した。松陰は追手から逃れるため松戸宿の旅籠を避け、山林を分け入り、初日の宿に本福寺の門をたたいた。そして姓名を変じて「長門の鄙人ひなびと松野他三郎」と名のった。

 本福寺宿泊の経緯は本堂右手前に建つ大きな石碑に「吉田松陰・当山に宿す」と題して『東北遊日記』の一文が彫られている。当時の住職29世了音和尚は松陰を快く迎え入れて、もてなしたという。翌朝松陰は「村童ノ為ニ学而がくじノ首章ヲ講ズ、朝五つ時寺ヲ出ズ」で水戸に立った。「吉田松陰脱藩の道」の碑にはこのような歴史が秘められている。

 もう一つの「佐藤久太郎殺害」の石碑は、幕末の水戸藩内の佐幕派と尊皇攘夷派の対立によって生まれた悲劇を物語っている。紙幅の関係で詳しく紹介出来ないが、幕末水戸藩の内部抗争が激化していく中、元治元年(1864)3月に藤田小四郎ら尊攘派天狗党が筑波山で兵を挙げた。武田耕雲齋は小金に数千の同士をもって陣を張り、江戸の動きに備えていたので小金町は騒然としていた。こうした中で水戸藩諸生派の佐藤久太郎が佐幕派家老・市川三左衛門に与したとして、小金町で捕まり上本郷雷山付近(現北松戸3丁目・龍善寺下)で首を切られた。遺体は土地の人によって本福寺に埋葬された。

 本福寺の境内墓地に崩れかけた地蔵菩薩が祀られている。佐藤久太郎の墓である。私が詣でた時、周辺は草茫々でやぶ蚊に悩まされた。今や歴史は風化しているかのようだが、幕末史にご興味のある方は是非とも足を運ばれることをお勧めしたい。

以上