溝渕 碩治(東葛白門会会長 昭和40年・法)

 私の住んでいる松戸市には名刹といわれる寺院や、ユニークな歴史を育んでいる寺院が多くあります。定年後暇つぶしでそれらの寺院を史跡散策しながら、寺伝やエピソードを勉強させていただきました。それらの中から興味そそられる秘話や貴重な歴史話をいくつかご紹介させていただきます。

1回目は「東漸寺の歴史の陰」です。

東漸寺本堂 photo;YUJIPIX 2021.3.14撮影

名刹東漸寺はJR「北小金駅」から南に500㍍の所にあります。正式名を佛法山一乗院東漸寺といいます。徳川将軍家と強い繋がりがあった浄土宗の寺院です。

寺伝によりますと文明13年(1481)に増上寺の末寺として根木内に創建されました。そして、約60年後の天文年間に現在地小金に移されました。この頃の東漸寺は小金城主である高城氏の菩提寺であり、高城氏の庇護を受けて経営基盤はしっかりしていたとのことです。

 天正18年(1590)、家康は関東に入るとすぐに増上寺を菩提寺にいたしました。

東漸寺の第七世照譽了學は江戸幕府が樹立された慶長8年(1603)、家康に招請され綬戒師をつとめました。寛永8年(1631)には、2代将軍秀忠の病気平癒の祈祷を依頼され、翌年寛永9年正月に将軍直々の命で増上寺の17世貫主に就任、秀忠の葬儀では大導師を務めました。そんな将軍家との関係でありながら東漸寺は朱印地受領まで長い時間がかかりました。家康は天正19年(1591)に萬満寺(馬橋)に70石、本土寺(平賀)に10石を寄進しております。東漸寺に35石の朱印地が発給されたのは、3代将軍家光の時代、寛永13年(1636)11月でした。徳川の治世になってから実に46年の歳月が流れております。何故だったのでしょうか。東漸寺は浄土宗関東18檀林の寺でもありました。この間寺の経営は並大抵な事ではなかったといわれております。

 しかし、その後は朱印地の寄与や祠堂金貸付の利金等々で経営は安定を増していき、寺の大改修が成就した享保7年(1722)には、本堂、方丈、経蔵、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、山門、大門、その他八つの学寮など20数箇所もの堂宇を擁し、末寺35寺を数え、名実ともに大寺院へと発展いたしました。

 そうして繁栄を続けて凡そ120年後、天保11年(18409月に第44世住職春譽顕察が「女犯」という罪で八丈島に流罪になってしまいました。経済的豊かさが心の緩みを起こさせてしまったのでしょうか。もっとも江戸中期以降浄土宗門全体の僧侶の堕落を宗門内でも問題視し、反省とこれらの対処に苦悩していた時代でもあったようです。

 顕察は増上寺の役僧から東漸寺の住職になった人で、大変な能書家で八丈島でもその才能を遺憾なく発揮いたしました。しかし、それ以上に顕察は八丈島で廃れていた八丈島念仏講を中興し、幾多の流人や島民を念仏の道に帰依させたと『八丈島流人銘々伝』にあります。在島4年の天保15年(1844)に狂死しました。自らを責めさいなむ日々だったのでしょうか。

東漸寺のしだれ桜 photo;YUJIPIX 2021.3.14撮影

 東漸寺のしだれ桜は樹齢300年を超える見事なものです。桜の季節、花見としゃれてみては如何でしょうか。境内を吹き抜ける爽やかな風に東漸寺の歴史が蘇ります。                      以上